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| 松親会御祭茶 | |
| 東京支部 松親会 松田壯吾 | |
茶道鎮信流流祖鎮信公の東京支部(松親会)御祭茶が令和7年11月9日(日)、東京都杉並区梅里の天台真盛宗の東京別院にて執り行われました。鎮信公(松浦家29代)は、旧暦元禄16年10月6日(17030年11月14日)ご逝去され、今年は322年目の御祭茶となります。 鎮信公ご命日の御祭茶を口切として行うのが伝統となっております。
真盛寺東京別院の奥殿二間をお借りし、上段の間の床に鎮信公の御影の御軸が掛けられ、中央の卓上左側白磁の花入に鎮信公が慈しまれた白菊が楚々と入り、右側に燭台を置き、床の左側の三方に熨斗を飾りました。脇床には葉茶入りの茶壺が飾られ、茶種の記された入り日記が壺の箱の蓋裏に貼られて置かれています。上段の間の床に向かい左側には枯山水の庭を背にして御宗家様(41代)と収様(42代)が座られ、右側には御奥方様が座られています。 下段の間には、東京支部の会員諸兄姉が床に向かって座しています。 御宗家様の手で燭台のローソクに火が灯されると口切の式が始まります。 今年の口切の茶堂の役を私が仰せつかることになりました。上段の間の襖を開け折敷を持ち入り、御宗家様と向き合う処に坐りそれを置き、脇床から茶壺を下ろし、赤子を抱き抱えるように折敷の前に坐ります。茶壺は錫製で少なくとも12㎏はあり、持って立ったり坐ったりするのには慎重を要します。茶壺の紐、覆を外し、外蓋、中蓋をとり、外蓋を被せ、折敷に紐、中蓋、覆をのせます。茶壺を抱き抱えて御宗家様の御前に運び、御宗家様に内を検めていただき、次に折敷も御宗家様に見ていただきます。 |
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茶堂は茶壺、折敷を水屋に運び入れた後、入り日記を脇床より下げ、御宗家様の御前に置き、「いずれのお茶をお挽きしましょうか。」とお尋ねします。御宗家様より「御祭茶ですので一番目のお茶を。」とのお言葉をいただき、「かしこまりました。」と入り日記を水屋に下げます。 引き続き、御宗家様の御講話を拝聴いたします。 鎮信流の薄茶の抹茶「一の白昔」の名称の由来のお話、(NHK-BSテレビドラマ「妻は、くノ一」の殿様)静山公(34代)御著の甲子夜話の由来は静山公知己の林大學の助言により11月の甲子の日の日から20年間を綴った記録とのお話、忠臣蔵外伝の歌舞伎二代目中村吉右衛門の当たり役「松浦の太鼓」の吉良邸の隣家の松浦藩邸は、事実は平戸藩の支藩である平戸新田藩の江戸屋敷であったこと、忠臣蔵の討入り前夜、松浦屋敷で茶杓を削ったとされる銘「討入」の所有者と称するフランス人女性が訪れてきたときのお話し、いずれも鎮信流に関わる門人にとって興味の尽きないものでした。 この間、水屋に運び込まれた三台の石臼で茶壺の茶葉を男性陣が黙々と挽きます。石臼の軋む音が心地良く隣室の御講話中の奥殿に流れてきます。 御講話の後小休止があり、全員席に戻り、挽かれた茶を入れた一文字棗を茶堂が三方にのせて入室し、床の右側に置き、御影に改め向き直り、扇をとり深礼します。茶堂と共に一同も深礼し、口切の式は以上で了します。 この方式は、平戸亀岡城で行われていた口切の儀を基にしたものと聞いています。 引き続き、下段の間にて収様が真の台子点前で茶を点てられます。私は、今度は半東として口覆いをつけて天目茶碗を御宗家様前に運びます。御宗家様はそれを床の卓の中央に献げられました。 献茶の後、床が改められ、御軸は観中公(35代)11歳の時の御筆「蓬莱」に替わり上段の間、下段の間にテーブルを運び入れ、東京支部前支部長地引茂さんの献盃のご発声で泉竹の懐石膳の食事が始まりました。その後は交代して石臼で挽いた抹茶を点て全員で服しました。 御奥方様、前年茶堂役の吉留康司さんのお陰で無事大役を務めることができました。 朝方の雨模様の秋気も午後には収まり、穏やかで荘厳な時間だけが過ぎていきました。 |
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