2015年4月7日
龍門寺献茶茶会
佐世保支部 松浦純二


四月四日播磨の春の風物詩、盤珪さんのお寺で有名な龍門寺の満開の桜に迎えられ、松洽会27年度最初の行事である献茶式、
茶会が始まりました。
本堂をいっぱいにうめたお客様の見守る中でご宗家の盤珪和尚及び鎮信公にお供えする二連点の献茶が始まりました。
龍門寺のご住職が中央に座され、見守られるなかで堂々としたお献茶が始まり、参加者の視線は一瞬の動作も見逃すまいと、お点前に集中されていました。


献茶式の後、次の間で、お寺で準備された大茶碗の席が始まりました。盤珪和尚のお手植えの松で作られた大振りの台子、大風炉、大棗、大茶杓、大茶筅で大茶碗をまえに薄茶が点てられ、参加者に運ばれました。
皆さん顔が見えないような大茶碗でお茶を飲みまわされる光景がなんとなくユーモラスな光景でした。


もう一席は鎮信流の濃茶席です。前日皆で力を合わせ準備したお茶席が始まりました。役割表にのっとって一斉に動き始め、合計五席プラス一席があっと言う間に終了しました。軸は静山公筆 十炷香 という香札の花々を描いたものでした。その前には、春の海をイメージした白砂に宇和島からの石をあしらい、軸の花々とコントラストのとれた、生花がなくとも不自然さを感じさせない風景はお客様にも好評のようでした。






龍門寺でご宗家が毎年献茶を行っておられるこの献茶式の由来について、又盤珪和尚と鎮信公の出会いについて副住職にお尋ねしたところ、次のような説明の資料をいただきましたので、続けて掲載することと致しました。

龍門寺献茶会の由来
「大茶碗席」で有名な今日の行事は、盤珪国師の霊前にお茶を差し上げ、参会する人々もお相伴にあずかるということからはじまったものですから、正式な呼び名としては「献茶式、大茶会」と呼ぶのがこの行事本来の趣旨を正しく表していると思います。

ここでは呼びやすく「献茶会」と記すことにします

この献茶会は、盤珪国師に帰依することの篤かった肥前平戸藩主・松浦鎮信公、及びその子壱岐守・棟公によって始められたものです。鎮信公は、元禄六年(1693年)江戸本所に、菩提寺として天祥寺を建て、国師を招いて落慶法要をされました。

法要のおこなわれたのは、そのころ国師が江戸に滞在された、三月から五月の期間内である事は確かです。

ところで、国師も公も同じ元和八年(1622年)三月の生まれですので、少々勝手な推測かもしれませんが、お二人は師弟として、また心を許しあえる友として、お元気に古希を超えたばかりの日に落慶の佳き日を迎え、特に感慨も深かったことでしょう。

そこで茶の湯に造詣の深かった公は、巧まずして日ごろの国師の導きに対する感謝の気持ち、また落慶の喜びを、自ら茶を点てて国師に差し上げることによって表すということになったのだろうと思われます。

国師にとっても心豊かな茶席であったに違いありません。また日ごろ、国師の導きを藩政にも生かしている公の心は、おのずから溢れ出てその日集まっていた多くの人達にもお茶をご馳走されたということになったのでしょう。

当時寺社奉行であった棟公もこの席に加わって居られ、大衆の歓待にあたられました。

国師はこの席をたいそう喜ばれ、両公も之に感じ、以後毎年行うことが決まったのですが、残念なことに、その年の秋に国師が亡くなってしまわれましたので、翌元禄七年(1694年)には龍門寺に使者を遣わして国師の霊前に茶をお供えし、また参詣の大衆にもお茶を振舞われたのでした。これが「献茶会」の始まりです。

鎮信公亡きあとも棟公は父君の志を継ぎ、これを続けられたのですが、いつの頃にこれが中絶したのか明らかではありません。龍門寺十五世の栽松軒・鳳州老師はこれを惜しみ、再興を発願されましたが実現に至らず、遺志を引き継ぎ、昭和二十九年(1954年)、十六世琢道和尚の時に、盤珪国師の頂相をお飾りして一服のお茶を差し上げ、この献茶の後に、大茶碗を使用する「西大寺大茶盛り」の趣をとりいれて一般の方々にもお相伴をして頂くという現在の形で復興し今日に至っています。

また、平成十一年(1999年)からは、「献茶式」は松浦家第四十一代の当主であり、鎮信流の宗家である松浦宏月氏が来山して執り行われる様になり、この行事は一層意義深く感じられるものになっています。